有馬温泉 創世記 その2

2020年6月30日


古いという事と歴史があるという事は違います。 日本の正史「日本書紀」に、631年舒明天皇が。有馬に行幸したというのが日本の温泉地では一番古い記録です。 歴史があるというのは、その時代の人が有馬に来た記録があるという事です。後世の人が想像で書いたものとは違い真実です。有馬には他の温泉地と違って圧倒的に多い記録があるのです。 その有馬中で一番歴史があるのが当、御所坊です。  

有馬温泉は三羽のカラスが発見した。

動物が発見したといわれる温泉は多い。

英語で風呂(BATH)の語源になったイギリスのBATHは豚が発見したといわれている。イギリス王室ご用達の温泉だ。同じロイヤルファミリーご用達の温泉として姉妹提携が出来ないかと考え、阪神淡路大震災後BATHを訪問した事がある。ロンドンのパリントン駅から特急列車で1時間半で行ける。花の美しい街として有名で、訪問当時は入浴施設がなく飲泉のみだったが、その後2006年にサーメ・バース・スパが建設されて現在では入浴ができるようになっている。

岡山県の湯原温泉はダムの下に河川敷を利用した混浴の露天風呂がある事で有名な温泉地だ。

ある日、湯原温泉から早朝有馬に向けて帰ろうと車を走らしていた。道路の左手を流れる川に目をやると川岸にうっすらと湯気が上がっている所があった。そこでカラスが水浴びをしていたのだ。その時にやっぱり動物は温泉に入る。やっぱり有馬温泉はカラスが発見したのだと思った。

動物が入る温泉としてスノーモンキーで有名な長野県の地獄谷温泉がある。すべての猿が温泉に入るのかというとメス猿と子供の猿だけという。猿を温泉に入れる為にはちょっとした仕掛けがあるそうだ。

話を有馬の湯の発見に戻そう。

延喜式神名帳には有間神社・公智神社・湯泉神社の三座が記載され、湯泉神社が大社として月次・新嘗の神事をあずかる社となっている。

湯泉神社には大国主命(おおくにぬしのみこと)と少彦名命(すくなひこなのみこと)が祭られている。

大国主命は創造と破壊の神様だと言われている。少彦名命は薬の神様。この二神が三羽のカラスが傷ついた足を谷間の水たまりで癒しているのを見て、有馬の温泉を発見したと言われている。

湯泉神社にはカラスの彫り物がある。足は三本。日本のサッカーチームのマークになっている八咫カラスだ。

太陽の化身であり熊野信仰と結びついている。有馬は熊野とかかわりが深い。熊野本宮の祭神ケツミミコ神の命令でカラスが有馬に飛んで二神に温泉がある事を教えたとされている。日本人の温泉感は神道と密接な関係があるという。

1993年中国道の神戸ジャンクションの道路工事の際に発掘調査が行われ、5~6世紀の官営的な住居跡が確認された。その事により有馬の北方、神戸市北区八多町は渡来人が住みつき産業を興して栄えて地域であったと考えられる。

八多は古名を幡多郷といい、上下二集落があった。

地名にも番匠垣内・番匠・矢骨川(木工)、穴窯・鍛冶屋垣内・鍛冶屋谷・鍛冶ケ岡・金屋・鍛冶ケ坂・鬼のふん(鍛冶)、陶釜谷(陶工)。などの技術者が存在した形跡がある。

八多から南方をみると連山の六甲山が見える。

百済からの渡来人は薬を用いたという。薬草を求めて六甲山に行こうと考えてもおかしくはない。

モノづくりの人達が木や陶土を探しに行くのも想像できる。

川に沿って六甲に向かえば、自然と有馬にたどり着き、現在の金の湯の所に行きつく。

金の湯の場所は今も昔も有馬の湯の湧き出でる場所だから、当然湯を発見してもおかしくはない。

冬場だと湯けむりが上がっていて発見は容易だったと思う。カラスが三匹いたかもしれない。

彼らは渡来人だから湯の重要性は知っていただろう。とうぜん、彼らのボスである蘇我馬子に報告しただろう。

有馬の湯の発見者は、蘇我馬子だと言ってもおかしくはないのではないか。

薬を扱う人々はすべて薬の神様、少彦名命といわれていたかもしれない。

ならばモノづくりの人々は創造と破壊の神様、大国主命と言われ二神が発見したというのも正しいのかもしれない。

もちろんカラスは現在でも有馬にたくさんいるから、カラスが発見したというのもおかしくはない。

しかしカラスはしゃべれないので、有馬の湯を発見したのは、有馬の北方に住んでいた渡来人で、その報告を受けて広めたのが蘇我馬子だと考えられる。