GOSHO CRIL 老舗のカレー販売

2020年6月30日


郷土料理は各地域の特産物を使って生み出された料理の事です。その点でいえば神戸の郷土料理は“洋食”と言えます。幕末から明治にかけて生まれたポークカツ(とんかつ)、カレーライス、コロッケ、エビフライ等、今回のテーマはカレー!です。

 

御所坊でカレーを作りました。Curryでなくポルトガル語でCrilと記載しているのは、元々インド料理のカレーを1563年、ヨーロッパに最初に紹介したのがポルトガル人ガルシア・ダ・オルタだったからです。Gosho Cril (ゴショ・カリール)は伝統的なレシピの「ダブル・オニオン神戸ビーフカレー」です。

 

東洋一の神戸オリエンタルホテル

神戸は慶応3年(1868)に開港し、1870年には神戸オリエンタルホテルがオープンしていました。明治20年(1887)「日本の仏料理の父」と言われるルイ・べキューがオーナーとなり、ペナンのオリエンタルホテル、シンガポールのラッフルズホテル香港のヴィクトリアホテルよりもサービスや料理が良いと高評価を得たそうです。

明治33年(1900)支配人はアダム、料理長はフランス人のジソ―、司厨長は中国人アタン、カレー係はインド人のデビス、菓子の係はアメリカ人とイギリス人という体制で運営を行っていました。オリエンタルホテルが日本の西洋料理界を引っ張っていたと言っても過言ではありません。

 

谷崎の「細雪」に登場

食通で知られる谷崎潤一郎もオリエンタルホテルを贔屓にしていました。あの「細雪」の中で、昭和11年蒔岡家の雪子の見合いの様子が描かれています。

同様に「細雪」の中に出てくる有馬温泉の花の坊は、ホテル花小宿の前身です。でも実際は御所坊に滞在していたと関係者は言っています。

そのような物語があり、神戸ビーフの但馬玄の煮込みに使う部位を利用して、伝統的なオリエンタルホテルのレシピでカレーやシチューをつくりたいと考えました。縁を頼り、料理を指導してくれる旧オリエンタルホテルの職人を探し当てました。

 

玉ねぎ栽培はじめ物語

明治12年(1879)堺の農業勧業委員だった坂口平三郎が神戸でビーフステーキに添えられていた玉ねぎを食べて感動し、居留地のアメリカ人から玉ねぎを3個分けてもらって泉州で栽培実験を始め、明治14年(1881)初めて収穫出来ました。玉ねぎは岸和田港から神戸に船で運ばれ、居留地の外国人や西洋料理店で販売されました。明治末期にはオーストラリアに輸出されるまで栽培は盛んになりました。一方、淡路の玉ねぎは泉州の栽培技術を導入し、黄、赤、紫、白の4種の玉ねぎの種子を輸入して試作されたものです。この様にして良質の玉ねぎが手に入る事で神戸の洋食は発展したのです。

 

ダブルオニオン・神戸ビーフカレー

オリエンタルホテルのカレールーの特色は多量の玉ねぎを使用します。レシピを見ると、60人前で玉ねぎ30個、フライドオニオン15個分、合計45個分ですから1人前0.7個の玉ねぎを使用している事になります。

大量の玉ねぎをスライサーで切れば簡単ですが、「包丁を良く研いで、手作業で玉ねぎをスライスしていかなければならない。」と職人さんは言います。刃が切れないと玉ねぎを押しつぶすようになり、水分が出過ぎてしまうという事です。御所坊ではベテランも新人も一緒になって玉ねぎを切っています。これを1時間以上、こげない様に飴色に炒めていきます。そしてフライドオニオンは玉ねぎを180℃の温度でフライにしたものを混ぜ合わせて、玉ねぎ独得の甘みが加わったカレーが出来るのです。そして神戸ビーフの最高穂の但馬玄が加わるのです。旅館料理に飽きたら、御所坊のダブルオニオン・神戸ビーフカレーをご賞味ください。