明治・大正時代の有馬へのアクセス 有馬自働車

2020年5月31日


明治に入り政府は東京大阪間の鉄道計画を策定し、明治5年、新橋横浜間が開通しました。

明治7年には大阪神戸間が開通した。その事により神戸の一つ手前の駅、住吉から六甲越えで魚屋路のルートが有馬への主要ルートとなったのです。住吉から魚などを積んで六甲山に上がり、有馬からは竹籠などを馬に積んで頂上で荷物を交換して有馬に戻ってきていました。

その道が“ととや道”であり、旅人も籠に揺られてやって来ていました。その一人が幸田露伴で「まき筆日記」に記載しています。

明治32年(1899年)阪鶴鉄道が三田まで開通すると、三田が有馬の玄関となったのです。

さらに大正年(1915年)三田から有馬への有馬線が開通しました。

この写真は明治村に保存されているアメリカ ボールドウィン・ロコモティブ・ワークス製の機関車ですが、有馬線にも同様の機関車が最初導入されていました。

その後国産のC12に変わります。

 

1928年、三田唐櫃間(現在の有馬口)神戸有馬電気鉄道(現神戸電鉄)が開業し、唐櫃で乗り換えが必要でしたが、28分間隔で運行できたのと、駅がより温泉街の中心に近い事から有馬線は苦戦を強いられました。

そして第二次世界大戦がはじまり、昭和18年有馬線は運行休止となって鉄道施設は撤去され、使用されていたC12は篠山線に転用されたのです。

明治大正期の有馬郡は神戸市と目と鼻の先にありながら陸の孤島として六甲山系にさえぎられていました。

「摂北温泉誌」によると、「多聞通りを見物しつつ相生町を離れ、山手に向けて行けば有馬道なり、これを天王越えという。山田村に入れば摩耶山の背後を巡り、湊川の上流を沿って小部辻までおよそ二里。ここを過ぎれば下り坂なり、丹生の山田を過ぎ、唐櫃村に入る、・・・これより有馬に入る。神戸より五里二十七町。人力車賃金一円三十銭なり」

と記されています。

 

阪鶴鉄道が三田まで開通した明治32年(1899年)から有馬線が開通する大正8年(1919年)の20年間は、三田から籠や人力車で有馬に向かうしかありませんでした。

明治38年(1905年)6月14日大阪毎日新聞によると、有馬自働車会社の設立総会が有馬倶楽部ホテルで開催された事が記されています。

阪鶴鉄道三田駅、有馬温泉間に乗合自動車を営業する。自動車は神戸のゼーアール商会三浦広告から購入したアメリカ製ノックス2台、価格1台8.000円12人乗り、運賃1人50銭、荷物1立方尺5銭、上部に手荷物を置けるようにしてあり、三田駅前と有馬高等温泉前に停車場があり、阪鶴鉄道の列車が三田駅に到着する時間に合わせて運行しました。

三田から有馬へは山道なので40分。逆に有馬から三田へは下り坂なので25分で到着できた。中間の道場と山口で乗降客があれば停車していたそうです。

シーズンの7月8月は二台の車で1日8往復。5月6月9月は6往復。4月10月11月は1台を使用して4往復。1月2月3月12月は3往復の運行を行っていました。

毎日新聞社系の毎日繁盛社が広告専門の大福帳という雑誌の20号に御所坊と有馬自働車の広告を載せています。それを見ると

有馬の誇りは独り夏時の勝のみにあらず。避暑地として使われていたので夏季が年間で一番の繁忙期だったのでしょう。

しかしわずか1年あまり明治40年2月に解散しました。その後車両は奈良に転売され春日大社と一の鳥居間の運行に使用されたといいます。

自動車の“動”を“働”と書いている様に勝手に動くと考えていたようです。ところが故障するし修理の仕方がわからなかったのです。また駕籠かきなどの妨害もあったようです。

その後、大正2年東洋自動車株式会社が有馬三田間のバス営業を開始し、1日4往復運行したが収支が合わず1年で閉鎖した。

大正10年有馬宝塚間を走る有宝自動車が設立されたが採算が合わず、昭和期にはいって大阪タクシーの経営となり、宝塚有馬乗合自動車として、タクシーと共にバスを運行した。バスは1日6往復、車両はシボレー、フォードのトラックのボディーを改造した14、5人乗りであった。

大正14年には神戸有馬乗合自動車が神戸平野から山田村や有馬へ運転を開始、大正15年頃にはハ多西畑から深谷を経て有馬への路線も増えた。これらの車はオープンで幌をかぶせて座席を改造し、5~7人乗りにして、時にはステップに2~3人乗せて走っていたそうです。

【 雑学 】

有馬温泉内を手軽にそぞろ歩きをして頂く為に、電動のレンタカー(4人乗り)をご用意しています。

その会社名を有馬自働車として復興しています。リンクしていますのでご覧下さい。