御所坊の“歴史”について さらに詳しく

御所坊の鎌倉以来八百年の歴史

古いという事と歴史が有るという事は違います。歴史が有ると、その時代々に訪れた人の記録があるという事です。
御所坊の歴史は鎌倉時代の公家である藤原定家の治承4年(1180年)~嘉禎元年(1235年)の56年間の記録「明月記」から始まります。

藤原定家(1162年~1241年)
建仁三年(1203年)六月末から有馬に湯治、上人湯屋に滞在し山奥の滝を見物し、女体権現に参詣し七月十日帰路についた。

元久二年(1205年)七月七日、未明に京都を出発した定家は日の出ころ赤江から乗船し、日没後神崎について一泊し、翌日早朝神崎を立ち午後有馬に着き上人湯屋に入った。当時、京都から湯山(有馬)まで、およそ一日半の行程だった。江口(大阪市東淀川区)には遊女屋があって旅客を接待していたようだ。

承元二年(1208年)十月にも有馬に来ているが、この時は船で水田(吹田)まで行き一泊し翌日の午後3時には有馬に着いている。

平頼盛の後室が湯口屋に滞留し、上人湯屋には播州羽林(藤原基忠)が居り、八日には入道左府が仲国屋を発って帰京し、九日には平三位光盛が老婆を見舞いに、十二日には七条院堀川局が有馬に来るといった大変賑やかな湯治場風景だった。

明月記にみられる湯宿は、上人湯屋(又は上人法師屋・上人房)、湯口屋(本湯屋)、仲国屋(仲国朝臣湯屋)の名がみえる。

上人湯屋は薬師堂温泉寺の上人房で、湯口屋は温泉湧出の浴場入口にあり本湯屋東屋ともいわれている。

建武三年(1336年)九条家注進状に8月24日九条家が有馬温泉社神主職・湯口東西屋を知行し、足利尊氏が所有権を引き継いだと記載されている。

仲国屋は仲国朝臣が湯治の為に建てた湯宿で、後鳥羽院細工所の木工頭仲国が関わったと考えられる。

寛喜元年(1229年)九条教家は一条相国公経の新造湯屋に入ったとあるので、鎌倉期の有馬は中央の有力者や朝臣が湯治用の湯屋をつくって京都の朝廷に仕える人々は湯治をした。雨天の場合は湯宿に温泉を運ばせて湯治をしたという。

 

西園寺公経(1171年~1244年)

鎌倉幕府と結んで京都に大きな勢力を持っていた西園寺公経は、晩年度となく有馬に来ていた。

1227年頃有馬に赤斑瘡(あかもがさ)が流行る。これは現代でいう麻疹(はしか)で藤原定家も14歳の時にかかり終生呼吸困難や神経症的異常に悩まされたという。そのように恐れられていたので、定家の義弟の西園寺公径は湯治を止めた。

寛喜三年(1231年)西園寺公径は水田(吹田)の山荘に、有馬の湯を毎日桶200運ばせたという。大変大掛かりなもので、各地の行遊と共に有名だったようだ。

建長三年(1252年)九月には後嵯峨上皇は大官院と共に水田山荘で、六年九月には御所に有馬の湯を取り寄せている。南北朝時代に入ると、将軍の御湯治料として有馬の湯の汲人夫と桶代を付近の庄屋に課していたという資料があり、将軍家も汲湯湯治を行っていた。

室町時代に入ればさらに諸家の日記に汲湯の事が記載されており、近世に入ると草津や熱海の湯を江戸将軍が取り寄せ庶民の間にも広まった。

 

“温泉”と言えば有馬温泉の事だった

虎関師錬(1278年~1346年)

鎌倉時代末期から室町時代にかけて禅宗寺院で漢文学が流行する。幕府の外交文章を起草する必要性もあり四六文を用いた法語や漢詩をつくる才能が重要視された事で五山文学が盛んになった。そのなかで温泉文学も生まれたが、ここで「温泉」とは有馬温泉を指していた。南北朝初めころから五山僧が有馬に来湯した。

康永三年(1344年)雪村友梅

貞和元年(1345年)虎関師錬は早期の五山文学を代表する人達です。

 

一ノ御所が一番重要な人が泊まる場所だった

南北朝時代の有馬湯治行として「祇園社執行日記」に詳しく記されている。

応安四年(1371年)9月21日、顕詮は薬師堂長老の指定で谷ノ藤五朗という一の湯宿にはいった。その時、故足利義詮の側室の細川局・八幡殿(将軍義満の生母)が湯治中で、播磨守護の赤松則祐が警護の為に逗留していた。

23日細川局母子が帰ると、その使用していた一ノ御所に赤松肥前入道性準の女房が東ノ御所から移り、東ノ御所に顕詮が移る事になったという。

つまり湯宿として一ノ御所が一番重要な人が泊まる場所だったといえる。この采配をしていたのが薬師堂の長老だった。

永徳元年(1381年)2月五山文学を代表する学問僧の義堂周信が長老の指示で一の御所に泊まり一ノ湯に入っている。

一ノ御所は一ノ湯の西にあり、東ノ御所は一ノ湯の並び東側であった。

現在の金の湯の所が古来から有馬の湯の湧き出る場所で、一つの浴槽を二つに仕切り南側を一ノ湯、北側を二ノ湯と呼んでいた。

薬師堂に面した湯が一ノ湯で、その東西に東ノ御所、一ノ御所という湯宿があり、これが建武三年(1336年)九条家注進状に「有馬温泉社湯口東西屋」と記載されている湯宿にあたる。

 

瑞渓周鳳(1392年~1473年)

亨徳元年(1452年)瑞渓周鳳が有馬に湯治し温泉行記(五山文学新集四所収)に詳しく旅程や有馬の様子が記載されている。

4月7日早朝、相国寺を出発する。お伴の僧を一人連れ瑞渓は輿に乗って陸路を有馬に向かう。
途中輿を下りて歩いたりもした。相国寺から約20kmの山崎の旅宿で昼食をとる。
箕面の瀬川の宿に着いたのが申の刻だから15時から17時。相国寺から西国街道を通って45kmぐらい1日で移動したことになる。
翌朝早く輿に乗り進むと途中道が分からなくなった。迷っていると湯治帰りの者が白杓子を持って通りかかった。この時代有馬の土産物は白杓子だったのだ。早速道を尋ねしばらく行くと道標があり湯山から190町(約20km)と記載されてあった。この時代にも有馬への道しるべが有ったという事だ。
生瀬で武庫川を輿に乗ったまま舟で渡り有馬に向かう。瀬川から12kmの所で昼食をとる。その後船坂に向かうが途中の道が険しく、輿を担いでいる者も足の踏み場がなく瑞渓は輿を降り草履を履いて川に沿って登って行った。二の湯の東北の息殿店という湯宿に着いた。

有馬のまちの広さは5~6町。つまり1町が3.000坪なので15.000坪ぐらい。現在の有馬温泉の金の湯を中心とした中心街という事になる。人家は約100軒で二階は湯治客用で下を自家用にしている。
町は横に東西200m蛇行している。まち中に小さな川が西北に流れていて、家々の前には木を渡して橋にしている。南北には約100m。縦横に小道が通っている。北は小高く南は高く、まるで樋の底にいるようだ。道は温泉寺に通じており、もう一つは山道に通じている。
瑞渓の泊まった息殿店は十字路の所に位置していている。二の湯の入口は北側に面していて広さが四間。ここは脱衣場で階段を5~6段下って、また四間ほどの湯室がある。湯室の中に浴槽があり、幅150cm~180cm奥行210cm~240cmで10人ぐらいは入れるようになっている。底は石砂で岩間から温泉が湧き出ている。これを板で半分に仕切っている。

湯室には水槽が設けられていて東北の水源から木製の樋で水が引かれている。頭や口を漱ぐのに利用されている。一の湯は二の湯の南側にあり入口は南側で樋の水は西南から来る。この一の湯二の湯は同じであって仕切りがあるだけで湯に優劣はない。ただ温泉寺に近い方を一の湯と称しており、湯客は貴賤なく南側の湯宿に泊まるものは一の湯に、北側の湯宿に泊まるものは二の湯に入るように決められている。

 

足利義満(1358年~1408年)

一の湯の西にある家屋を御所といい温泉寺の管轄である。これは足利義満がここに泊まったので御所というのだ。

瑞渓が泊っている湯宿が息殿というのは、義満が小休止を取ったからといわれている。

翌日、瑞渓が一階をみると店主が挽き物を作っていた。手に曲げ刃を持ち、もう一人が轆轤を引いていた。これが当時の湯宿の通例で、同じころに別の湯治者も挽き物細工をしている様子を記載している。

有馬では近年まで轆轤細工が盛んで「有馬の挽き物」というと薄いモノの代名詞に使われていた。

瑞渓は温泉寺を訪れた。老僧の案内で本堂の女体権現に参詣し、当時の温泉寺の様子を記載している。この時すでに湯宿では湯治法を書いたものが備えられていた。

 

季瓊真蘂(1401年~1469年)

温泉行記について詳細なのは蔭涼軒日録の中の季瓊真蘂(きけいしんずい)の文正元年(1466年)2月からの日記です。季瓊はこの前にも湯山湯治に出かけており、その間に湯山阿弥陀堂の勧進帳を将軍義政に披露して、再興に関わり湯山との関係が深かった。

文正元年の湯治に際して将軍から摂津守護の細川勝元や守護代の秋庭修理亮に途中警護の命令が下され、有馬郡主の有馬弥二郎には宿坊等の手配が命ぜられ、二の湯前の兵衛が京都に行き打ち合わせをしている。

2月29日季瓊は相国寺を出て湯山の御所坊に着いた。その時の御所坊の亭主は掃部という者であった。薬師堂では季瓊が来たというので気を使い、魚売りの呼び声を禁止した。

季瓊は町中が静かなのに不審を抱き調べ、薬師堂に使いを出して禁を解いた所、翌朝からは物売りの声で再び賑やかになったという。季瓊は37日間滞在したが、当時の有馬の滞在者は多くずいぶん賑わっていた。

この日記で興味深い事は、無垢庵主の話として、有馬のまちは家屋が50~60軒。瑞渓のいう100軒とは大げさな事。また浴槽も寸法も瑞渓は誇張している。

またこの日記で、御所坊の亭主は掃部・二の湯兵衛が出てきた。

瑞渓は御所は温泉寺が領していると記載しているが、御所は一の湯の西にあるので南北朝時代の一御所で、その名称からも個人的な湯宿ではない。それがこの頃には個人所有になっている。

季瓊の日記には、有馬で巫女の鼓舞とか、田楽徳阿弥の刀玉、八子太夫の勧進猿楽など湯治客を楽しませる催しが開かれている。

この頃から巫女が湯女と呼ばれる役務を担うようになったと考えられる。

 

蓮如(1415年~1499年)

文明15年(1483年)8月29日、有馬へ湯治に赴き、9月17日帰る

・・・いつのまにかは、いな河と云所につきて、是にてすこしやすみ、やがて舞谷と云在所をとをり、いそくとすれば、はや程もなく、大たた河原を打すきて、なま瀬の渡をして、船坂と云所へつきけれは、是よりは湯山へ一里とかやきけは、うれしくてあゆみゆく程に、はや湯山もちかくなりて、岩坂にうちかかり、やかて七坂八坂たうけをこえすきて、有馬之こほり湯山之御所坊と云ふ宿へそ下着し侍へりとて、かくそつけり。

岩坂や七坂八たうけこえすきてありまの山の湯にそつきけり

又云、

さかこえてえにし有馬の湯舟ひはけふそはしめて入そうれしき と

打詠して、やかて湯つほに入て、近比の湯也、と感せさりし人はなし。さて其夜は、我も人も、道すからの山坂を超え強いハレによりて、久田日れて、前後深くにして臥りけり。さる程に、あくれは又湯に入れ後、余に此宿の前にかけひの水又ほそ谷川之水のおつるおと、事外にかしましきあひた。其夜之五の時分に加様につけり。

ふる雨ににたるとおもう湯山のをとかしましきやとの谷川

さる程に、今日やあすと思へとも、初七日之湯もしきゆけは、余の徒然さに、古へ此湯山へ入し事を思出すにつきて、口すさみけり。

年をへて又ゆの山に入身こそ薬師如来にえにしふかけれ

老の身の命いままてありま山又湯に入らん事もかたしや

如此日をふる間、去ぬる廿余年になりし時、かま倉谷を久く見さりしほとに、思立、九月四日に一見せしに、あまりに彼在所おもしろかりしままに、かへるさに かやうに、

ゆの山をいつけしきの道すからかまくら谷のおもしろきかな と

思いつつけて、やかて湯に入しかは、其夜はくたひれてみなみなふせりあひけり。

又あくれは雨か一日中ふりこめられて、もうもうとしてこそくらしけり。されとも、五日・八日は天気事外よかりしかは、今日は幸に薬師の縁日なれはとて、薬師堂へまひり、同く坊にゆきて、寺之縁起を所望して聴聞し侍へりぬ。さてあくれは、九月九日之節句なれは、又薬師堂井に女体権現へまひりて、其かへさに菩薩院と云寺へゆきて、坊主と雑談しけれは、茶なんとをけたみけり。又十一日には同く薬師堂へまひり、寺へゆきて院主に対面して、種々之昔物語のみにてかへりぬ。やかて湯に入、其ままやすみ侍ぬ。さる程に十三日は二七日に相当るあひた。上洛之用意のみにて、此間之湯治中之名残さよ。なんと申合て、明日十三日には、早朝に湯山を出かけるとき時に、心の内に加様に案しけり。

日数へて湯にやしるしの有馬山やまひもなおりかへる旅人 と

打詠して、湯山御所坊之宿をたちぬ。(蓮如上人行実より)

 

長享元年(1487年)2月 興福寺大乗院尋尊 廿二日 御所坊伊勢国司(北畑政郷)宿故也、三月一日 一、今日国司出山了、予御所坊に可移

 

 

豊臣秀吉(1537年~1598年)

最初に秀吉が有馬の地を訪れたのは、天正7年(1579年)のこと。播磨別所氏の本拠三木城攻略に必要とする道普請を、当時は「郡」であった有馬の人々に実施させたという。

その後、別所氏当主長治が自害し、三木城が開城した天正八年(1581年 )の2月。秀吉は有馬温泉に浴し、城攻めによる疲労のため深く眠りこけたという。これが秀吉の有馬入湯に関する最古の記述である。(有馬地誌)

おそらくこの入湯がきっかけで、有馬の地に対して興味を抱いたのだろう。

その後、信長が本能寺の変で斃れ、明智光秀や柴田勝家、徳川家康ら敵対勢力と争いを繰り広げている最中であっても、秀吉はしばしば有馬を訪れていた。

また、石川本願寺の元法主本願寺顕如、堺の茶人津田宗久、今井宗薫らのような当時の大人物も秀吉を見舞って入湯している。(貝塚御座所記、天正日記等)

更に天正十二年(1585年)2月。8年前の大火によって焼失した薬師堂復興のため、金子1500枚および地領百石の寄進を正室北政所(寧々)の願いによって実施したとある。(善福寺文書)

この際復興された薬師堂は明治の廃仏毀釈による被害を逃れ、温泉寺(有馬山 温泉禅寺)として現存している。秀吉の寄進がなければ、有馬の名所が一つ消えていたところであった。

特筆すべきは、天正十七年(1590年)9月に行われた「有馬大茶会(ありまだいさのえ)」だ。

同年2月に小田原北条氏を下し、7月に伊達政宗ら奥州の諸将への所領与奪を実行。名実ともに天下人となった秀吉は、金湯山蘭若院阿弥陀堂にて茶会を実施。

太閤秀吉の茶会といえば、これより3年前に京都北野天満宮で行われた「北野大茶会」が広く知られているが、この有馬大茶会もなかなかのものであったようだ。

秀吉と懇意であった茶聖千利休をはじめ、後に五大老となる小早川隆景、有馬郡出身の父を持ち、伏見城建築に貢献した有馬則頼(法印)など、錚々たる顔ぶれが参加したと記録されている。秀吉自身も愛用の銘茶器「鴫肩衝」をわざわざ持参しており、大層な力の入れようであったと思われる。(善福寺文書)

 

その後、慶長元年(1594年)には大がかりな別荘「湯山御殿」を建てさせるなどしたが、慶長三年(1596年)7月に発生した「慶長伏見地震」によって全壊。

有馬の湯屋や民家も大きな痛手を負い、温度が急激に上昇したため温泉を利用することができなくなってしまった。(湯山由緒紀)

この事態を重く見た秀吉は直ちに復旧を行うと同時に、一年間にも及ぶ大規模な改修工事に乗り出した。

災害などで泉源が破壊されることを防ぐため、松の丸太を組み合わせ、隙間に粘土を硬く詰め込むなどして厳重に保護。更にはすぐそばを流れていた六甲川の氾濫による被害防止のため、その向きを変えるなどした。(湯山由緒記)

これにより有馬の地が水難に苦しめられることはなくなり、泉源はその後350年間改修工事を行う必要がなかったという。

建築の名人である太閤秀吉の実力と、有馬への強い思いがうかがえるエピソードである。

 

それから1年後の慶長五年(1598)年3月、秀吉は病に斃れこの世を去った。それより1ヶ月前、かつて復興に携わった薬師堂奥の院より新たな温泉「上の湯」が噴出し、「かねて薬師如来に願ったことが実現した」と入湯を楽しみにしていたようだが、ついに叶わなかったという。(湯山由緒紀)

その十七年後の慶長20年(1615年)、徳川氏によって豊臣氏は滅亡。

「なにわのことも夢のまた夢」という辞世句の如くその血脈は途絶えてしまったが、その功績は今もこの有馬において人々とともに存在し続けている。御所坊は湯山御殿建設の際に13石の立ち退き料をもらって現在地に移る。(太閤の湯殿館に資料あり)

良寛(1758年~1831年)

御所坊の中庭、偲豊庵の左わきに歌碑が建っています。

【碑面】
ありまのなにてふむらに
やとりて
さヽのはにふるやあられのふるさとの
やとにもこよひ月を見るらむ

有馬のなにてふむらに宿りて
笹の葉に降るや霰のふる里の宿にも今宵月を見るらむ

【歌碑の案内】
良寛が国仙和尚のもとで修行を了えた後、諸国を行脚修行し、帰郷の途についたのは寛政八年(1796年)39歳の時であったと云われている。
赤穂-韓津(姫路市福泊)-明石-須磨-生田-有馬-吉川(高代寺)を経て京都に入っている。有馬の歌はその時に詠んだのであろう。
建碑者は名古屋市在住の書家 川口霄亭さん。

伊藤博文(1841年~1909年)

神戸で一つの事件が起こった。 それが神戸事件。備前の大名行列の途中に外国人が通ろうとして殺傷事件が起きた。 その責任を取って備前の警備責任者が切腹することになった。

この事件を担当する為に伊藤博文(当時は俊輔)が派遣された。 彼はイギリス留学経験があり流暢な英語で外国人たちに許すように嘆願したがダメだった。 切腹の様子を見た外国人たちは大変驚き、ショックを受け、それ以来日本人に切腹を迫った事はないという。

この後、伊藤は神戸開港場外国事務一式の事例を受けた。

キルビーやハンターたちと親しくなり、整備が行き届いていない居留地の整備を行ったり、その後初代兵庫県知事に任命される。パーティーを開き外国人のアドバイスにより、ハンターたちの勧めで牛肉を食べて、神戸を近代的な街に整備した。

伊藤博文はその後、44歳で英語力を買われ、初代首相となる。

御所坊には伊藤博文が訪れスキ焼を楽しんだようで「高談娯心」(こうだんごしん)と書かれた書が残っている。現在2階の一番奥の部屋に掲げてある。

 

与謝野晶子(1878年~1942年)

「花吹雪 兵衛の坊も御所坊も目におかずして空に渦巻く」と、御所坊前の桜並木の風景を詠んだ。
神戸名木100選に選ばれている善福寺の「糸桜」は樹齢270年を越えている。

谷崎潤一郎(1886年~1965年)

谷崎潤一郎の小説の舞台にしばしば有馬温泉が登場する。

『猫と庄造と二人の女』のなかで「そしたら又御所坊の二階にしようか。」「夏より今の方がええで。紅葉見て、温泉に這入って、ゆっくり晩の御飯を食べて・・・」と御所坊が登場する。

また谷崎の代表作の「細雪」に出てくる有馬の宿は「花の坊」(現在のホテル花小宿)も実際泊まったのは御所坊です。

吉川英治(1892年~1962年)

吉川英治は『新平家物語』を執筆する際、取材旅行で御所坊に泊まった事を『随筆 新平家』に記載している。その部分を引用する。

雨後の山坂を、ゆられゆられ、有馬温泉の御所坊に着いたのは、もう十一時近くであり、それでも、湯に入ってから、まずはあとはあすの史蹟歩きだけになったと、急に気分もかるくなった。そして「このぶんなら腹のかみなりも治まろう」と浅慮にもまた茶など飲んではしゃぎ始めたものである。春海宗匠とても同様、まず大阪の一人をすましたというゆとりも出たせいか、障子越し硝子越しに有馬の河鹿哉と物理学的名吟を示され、僕も駄句ること三句、

啼いてゐますよとそこ開くる河鹿かな
夜もおそく着きて河鹿にまた更けぬ
水音は二階に高き河鹿かな

やがて部屋を別れ別れに、戸外の河鹿を措いて、こちらは蒲団の襟をかぶった(昭和29年7月4日)

無方庵 綿貫宏介(1926年~2021年)

絵画、彫刻、陶芸、建築、篆刻、茶など幅広い領域を横断し創作活動を展開する。

「無方庵」(実際はサンズイに方)と名付けられたその世界観は、製作、デザイン、プロデュースなど、ものに応じて形態を様々に取りながら、唯一無二の趣を湛え続けている。無方とは、物事に囚われないさま、融通無碍のこと、荘子の南華真経にある「應物無方」に由来する。

1986年から御所坊に関わる。