“無方庵”についてさらに詳しく

無方庵の空間

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無方庵 綿貫宏介先生について

下記の文章は、豊田有里さんが2018年度に京都造形大学芸術研究科修士課程で提出、受理された修士論文「綿貫宏介の創作活動-絵画と文字の新たなる邂逅」加筆修正した「無方庵 綿貫宏介 絵画ト文字ノ新タナル邂逅」の参考資料中として、豊田さんからインタビューを受けた内容を加筆修正したものです。

-綿貫氏との出会いを教えて下さい。

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うちの親父と先生が同じ年で大正15年生まれです。親父が㋃生まれで先生は9月生まれ、僕と年の差が30歳あるので、御所坊を今の形にしようと思ったのが30歳の時。1985年です。ある程度形になったのが33歳の時だと思います。つまりある程度できたのが先生が今の僕の歳。1985年といったら神戸市がポートピア81という地方博覧会を開催して、風見鶏のブームが起こって神戸が日本国中の憧れの観光地という時代です。

その当時、有馬温泉は神戸市観光のお荷物と言われていたそうです。大型旅館には団体客が日々押し寄せていて、うちの旅館なんかは週休五日制というか、土曜日ぐらいにお客さんが来て、後五日間は仕事がないので遊んで暮らすという日々でした。

ただ神戸市の行政が今後の為に有馬の若い子に勉強させようと思ったのか、マスタープラン。つまり未来の有馬温泉を描く作業をつくろうという事になった。それが地域づくりとか都市計画を勉強する機会に恵まれたのです。

例えば万年筆を売ろうと思ったら、ショーケースをちゃんとしなければならないし、店舗を考えないといけない。フロアー全体を考えて、ビルまで考える。そうなると通りも含めて考える必要があるって教えられたのです。

地域おこしのイベントばっかりやっていたら「まちおこし、まちおこしって言っているけど、お前所の旅館はどうなっているの?」と言われた。その時、ふと御所坊を振り返ってみると歴史などはあるけど近代化の波に乗り遅れた古い旅館で、週末になったら軽トラに乗った農家のおばちゃんがやって来て、立って料理をサービスするような状態やった。

でもその前にテニスクラブを作っていた。昼間する事がないのでテニスでもするかと言ってテニスクラブをつくったんだけど、テニスをすると汗をかくから温泉に入る。温泉に入ると一杯飲みたいから居酒屋をつくる。居酒屋をつくったら後輩が「ケーキ作りを学んできた」というので、「じゃケーキ屋もつくろう!」と今のカフェドボウをつくった。

だからテニスクラブやカフェドボウは先生と知り合う前につくったものです。

いよいよ旅館をせざるを得ないなあと思って、どうするかを考えた。今まで色々なイベントをやったり、まちづくりや都市計画を垣間見る機会もあった。そこで御所坊は有馬でどんな立ち位置なんだと考えた。ようするに御所坊が一番輝いていた時代。昭和初期の谷崎潤一郎が来ていた文化の時代を取り戻したら良いんだと考えた。

ジュリアナ東京の照明をつくったヤマギワの特殊照明が担当し、BGMはシンセサイザーでつくったオリジナル等々、まあ旅館というより商業店舗、レストラン、バーの組み合わせという考え方でおこなった。

それはその当時神戸の色んなイベントとかやっている連中が関わってくれて、その中で「金井さん、計画はすごく合理的だけど本来御所坊が持っている格とかブランドを上げる事が必要じゃないの?」と言われた。「格か~と思ったと同時にモノクロ写真の似合う旅館をつくりたいと思った」そこでやっぱり同じようにイバントで知り合った写真家の小林政夫先生に「先生にモノクロで写真を撮ってもらいたいんだけど、そして漢詩でイメージソングをつくれる人を知らないか?」って話をした。「ちょっと心当たりはあるけど、金井さんまた連絡するわ」

すぐに小林先生から「金井さん、(綿貫)先生の茶室に案内するわ」って連絡が入った。

茶室か・・・うちのかみさんが茶を少しやっていたので、かみさんを連れて二人で小林先生と待ち合わせて行く事になった。

俗にいう茶室とは趣の違う茶室に案内された。板の間で真ん中に炉が切ってあって、見るものみな珍しかった。そして世の中にこんな人がいるのかなと思った。何を話したかも覚えてないけど「じゃ今度行くわ」という事になった。

ゴールデンウィークが終わって(御所坊)を改装する為に建物の一部を解体している時に先生と小林先生が有馬にやってきた。部屋に案内して今後の計画を設計士がパースを見せながら説明していたら、「ちょっと紙はあるかね?」って話をさえぎって、紙にサラサラと漢詩を書き出した。「ちょっと浮かんだんだけどね、こうこうちゃんと韻を踏んでいるだろう?こういう意味でどうだ!」と御所坊の漢詩のイメージソングが出来上がった。

そのあとはどんな話をしたか覚えてないけど、漢詩の下書きの紙を持ってカフェドボウに行った。「変わった人と知り合って、漢詩でイメージソングを作ってもらったんや」とカフェドボウの店主の竹田君と、彼の友達で炭酸せんべいメーカーの覚前君(故人)に見せた。すると覚前君が「金井さん、これ無方庵じゃないの?。今、和菓子業界で滅茶苦茶有名な人やで」そこで初めて先生がすごい有名人だと知った。

1989年6月 茶室にて

いろんな人が先生と付き合いがあるだろうけど、まったくどんな人かわからんと雰囲気や作品などをみて、面白い人やなあと思ったのは僕が最初じゃないかな、その後先生はものすごい有名になったと思うから誰でも知っているけどね。

そんなすごい人に知り合う事ができて、そして「手伝ってやるわ」って言ってもらえて、ともかく出来る所からやろうという事になった。

ちょうど知り合ってしばらくして先生のお母さんが亡くなられた。お母さんの名前がキクさんという名前だったので「想菊会」を御所坊でやろうという事になり、その為に御所坊のマーク入りの帯をつくろう、浴衣をつくろう。というやり方でやってきた。

たぶん僕が先生に依頼するものの中には、先生の創作意欲を湧くようなものが有って、それが喜んで頂けたんかなあと思う。漢詩のイメージソングを作ってもらいたいという依頼すら特殊やもんね

そして最初のころに依頼したものにお客様から頂いたチップの領収書を漢詩でつくって欲しいというのがある。僕は先生の傑作の一つだと思っている。チップの扱いは非常に難しい。税制からいうと会社の収入。個人で取るものではない。もらうと色々ややこしい仲間割れの原因にもなる。団体などで幹事さんがチップを払うと領収書がある方が良い場合もあるし、気持ちで渡したので領収書を渡すと不快感を持つ人もいる。そこで千、二千、三千、五千、一万の数字の入った漢詩をつくりそれを領収書にしたのです。そのように難しい依頼を出すのを非常に喜んで頂いたと思う。

(♀)

ちょうど昭和と平成の狭間に、主人がお父さんから「(御所坊)お前やるんだったらワシは手を引くぞ。」という。じゃあちょっと改装させてほしい、というので改装しましょうという事になった。

大きい宴会、小間、小っちゃい部屋とか、昔ながらの等、そんなんを全部改装しようってなった。その頃トイレは一番良いものを入れよう、そしてたくさんある小間を5つぐらいを3つにするとかしてトイレのスペースをつくった。そして宴会はもうやめようと決めて広間を潰してしまった。

その頃は周りは木造を潰してビルにしている時代だった。そしてその当時は神戸がものすごく脚光を浴びていた。

世界に向けた都市になるという事は外国からお客さんがきっと来る。だから木造を残そうという事になった。

二度と木造三階建の商業施設は出来ないから。二人でその時の方向性と全く逆の方向に舵を切った。もしこれで失敗したら二人で屋台を引こうと改装に踏み切った。

その時に綿貫先生と知り合った。

そして良い設計士に巡り合っていた。私たちが結婚して、まずサニーサイドアップ・テニスクラブをつくって、息子が生れた頃にカフェ・ド・ボウをつくった。

その時に萩原珈琲(現在の会長)に紹介された設計士。その方に御所坊の改装の設計を頼んで、さあ開始しようと言う時に主人が言うには「モノができて最後に魂を入れる人が欲しい。」やっぱりモノクロ、墨絵で描いたような建物を創りたい。そしたら漢詩やろ、漢詩を書ける人いるんやろうか?その辺は想像でしか言っていなかったと思う。そしたらたまたま神戸のカメラマンで、有馬のあちこちの写真を撮って絵葉書にするのに知り合った人に先生を紹介してもらった。それで先生の所へ行って、茶室に招待してもらった。主人が茶を知らないから一緒に行こうと言ったのが最初の出会い。

カルチャーショックを受けるお家だった。

昔の谷崎潤一郎が住んだ家を見に行くと、和洋折衷が上手くできていてる。あんな感じのすごい素敵な家だった。

 

 

-基本的には御所坊さんのほうからオーダーする形になるのですか?

 

(♂)

御所坊のリニュアルをしようとしたときに、先生の家を設計士に見せてもらってある程度先生の空間を理解したうえでやっている。しかし全てを先生が気に入っているわけではないと思っている。

すべて先生の思いを形にするわけにもいかない。商業施設であり予算などもあるからね。でもやる時はだいたい絵を描いて「先生、ここをこの様にしたい」「だったらこうだね」というように重要なポイントポイントではやっている。

例えば玄関の風除室の鬼門除けの碑。先生と一緒に石を見に行って選んでその石に合わせて漢詩を原寸で書いていく。それを石屋さんに掘ってもらう。

 

「ここの所がなんか寂しいのでどうしましょう?「それだったらポルトガルのこういう奴があるから持っていけよ」「じゃ頂きます!」とか。そういう風にしています。

(♀)

うちの設計士も変な設計士で「先生それはアカン」って言える人だった。だから馬があったと思う。何かつくる時もあちこち連れまわっておられたから。

私たちが先生に最初にしてもらったのは、額を各部屋に入れたの。床の間に掛け軸とか掛けているじゃない、先生にこれどないやって貰って、これは此処が良いね、此処が良いねっと掛けて回った。

花入れに、これは良いぞ、と小ぶりの立杭焼の花入れ(小鼓の栗焼酎の入れ物)をたくさんもらって各部屋に花を入れた。

改装はお風呂から上の界隈(地久タイプの部屋)の部屋から始まった。各部屋の名前を付けてもらって、扉のガラスにすりガラスで部屋名を入れた。ポイント、ポイントで先生のモノが入っている。あれがないと肝にならない。

先生が展示会をすると「旅館は良いよなあ、立体的だよな。」って言ってくれた。モノを展開するのが立体的なんだ。むこう五か年、前期五か年、中期五か年、後期五か年で行こうと言われた。ゆっくりゆっくり進めた。

マッチをつくり、箸入れをつくったり、なんか小っちょいものを少しづつ少しづつ作ってもらって、ちょっとした文章なんかも、こういう事を言いたいんですって持っていくと先生が作ってくれて、「綿貫語になっているな」といいながら進めてきた。

何年かたったらそれが増えて来て、世間が「有馬に面白い宿があるぞ」とアーティストが先に気が付いた。だから有馬玩具博物館に関わった西田明夫さんや加藤祐三さんなんかの中でも話題になっていたようです。

 

-一緒に海外に行って視察でアイデアを集めたりもすると聞いています。

(♂)

先生と知り合ってまもなくの頃、アメリカのフィアデルフィア美術館でジャパニーズ・デザイン展が開催されることになって、先生のかばん持ちで出かけたのが最初です。その時時間があったのでフィアデルフィアの骨董屋街で蓄音機を見つけて購入したことが有ります。その時に先生に骨董品屋との交渉の仕方を教えてもらいました。それは今も活用している。

フィアデルフィア・ミュージアム(ジャパニーズ・デザイン展 1994年)

 

また阪神淡路大震災後、先生が暮らしたポルトガルのポーザーダとよばれる女王の館や古い建物を活用した小さな宿を泊まり歩きました。それがホテル花小宿のコンセプトに繋がっています。

-デザイン依頼の際など、こだわりを追求する事と商業としてのバランスをとる中で、気を付けていることなどありますでしょうか。

(♂)

先生に「こんなんしてよ。」、「先生ちょっとこれわかりにくいにくいのとちゃう?」とか言える人と言えない人があると思います。

例えば何でも良いから美味しいもの食べさせて・・・って言われたら何を出してい良いか困るでしょう? 魚の美味しいのを食べさせて、とか肉の美味しいのをと言われたら分かり易い。ある程度条件を付けて先生にお願いすると、さっさとすぐにできるのです。

先生の巧いなあと思う例として、有馬サイダーをつくっている会社に合資会社 有馬八助商店というのがあります。

会社をつくる時に先生に、メンバーが八人集まったので八兵衛商店とか昔風な会社名を付けたいとお願いしたのです。すると「それだったら八助だな」、「えっ八助ですか?」と聞き返した。すると先生は「日本八介という言葉を知らないのかね?」とか言って、日本八介「の説明をしてくれて、僕がメンバーの顔触れから、いつか有馬の各組合の代表になるだろうという話をしたので八助になったのです。

“介”も“助”も同じ意味だという事で有馬八助商店と称して「助平が8人集まったので八助商店だ!」と皆には言っていました。

そして有馬八助商店が始める店は、有馬温泉の賑わいづくりの場にしたい。そして有馬の商品開発をしたいという事を先生に言ったのです。

先生は「じゃあ有馬市はどうだね? 有馬市の〇〇と言えば、有馬一の〇〇と聞こえるじゃないか!」という事で屋号は有馬市になったのです。

そして有馬市のマークは“有馬”を昔風に右から左に書いて、“馬”と“有”の間に“the”と入れたのを作ってくれたのです。これで有馬の商品というthe有馬になり、馬the有でバザール。すなわち市場になる。

やっぱりすごいなあと思った。それからは人に説明する時にはマークの説明をするようにしているのです。

そういういろんな言葉をつくったり裏読みできる文章をつくれる人は少ないと思う。先生の作品集に「なんてパロディよ」(『南天葉露堤要』無方庵1984年)があるけど好きだなあ。

(♀)

全体的な構想を基に展開したのか、まずは部分から展開したのか、というと両方だと思う。私たちが先生ので一番感動したのは御所坊の漢詩をつくってもらった時。それを「どうだ」っと見せてもらって、おお凄いって! その時先生は「言われた時に、もうすぐに頭に浮かんでいたんだよ。だけどな、すぐに言ったら、価値がないからな。」先生は日本人は努力根性、苦労の末でないと価値を認めないといつも言っておられる。

ある時、浴衣を変えようという事になった「こうしたらどうだ。」とおもむろに絵を描いたりして。「これ(模様)を反物に、こう(斜め)に入れるんだ。」反物をカットすると、是にはこうゆう風に柄が入るし、ある浴衣にはこの様な柄になる。って出来上がりがちゃんと頭の中で描けておられる。天才やなあって思う。

-その時 宿屋の主人は見た!・・・先生の仕事の仕方

「さっさと作るけど美味い飯と手間暇かけたが不味い飯と、どちらが良い?」というような質問の仕方を先生はよくする。

日本人はとかく努力、根性、辛抱が大好きだ。苦労の末に出来上がらないと評価しない。と付け加える。

先生は仕事がめちゃくちゃ早い。人から依頼を受けた瞬間ぐらいに出来上がっている。でも考え抜いた末の答えだといわないと人は価値を感じてくれないので先生はもったいを付けるのだ。

そして非常に合理的に作品をつくる。

しかし他人には真似のできない手法を生み出すのだ。

ある日、先生宅を訪問した時、先生は3枚の横長のキャンパスに絵を描いておられた。

油絵だから凸凹があるのだが、白一色で描かれている。

「パレットナイフをいっぱい持っていてね、自分で色々加工しているのだ。」と言って、先生はパレットナイフを使って3枚同時に油絵を描くのだ。

例えば赤色を塗るとしたら、3枚の白い絵の必要な所に赤色を加え、次はオレンジ・・・・と普通油絵を描くのに乾く時間を考えれば1ヶ月ぐらいかかるのを、先生は3枚同時に仕上げてしまう。

 

キャンパスでなく段ボールに金箔や銀箔をあえてぐちゃぐちゃに貼り、その上から絵を描き、最後パレットナイフで削る事で線を引くという手法もとる。