藤原定家
御所坊は建久二年(1191年)創業と伝えられる。創業当時の様子が、藤原定家が56年間 にわたって克明に綴った日記「名月記」の中に見られる。それによると、承元二年 (1208年)十月、定家が有馬を訪れたとき、有馬は貴人でにぎわっており、御所坊の前 身と言われる「湯口屋」には平頼盛の後室が泊っていたようだ。
足利義満
14世紀末、足利義満が有馬温泉を訪れた。その際に御所坊の前身、湯口屋に逗留したようで、この逗留を期に、その宿は「御所」と呼ばれるようになった。室町幕府6代将軍足 利義教や同8代将軍足利義政に仕えた相国寺第50世住持の瑞渓周鳳は、 享徳元年(1452 年)四月に有馬を訪れ、その際の日記の中に、この「御所」の由来について記している。
豊臣秀吉
天正十一年(1583年)以降、豊臣秀吉は北政所ネネや千利休等を連れて何度も有馬に訪れ た。文禄三年(1594年)には、有馬に秀吉の湯山御殿を建設、その際に御所坊は秀吉から 十三石を譲り受けて現在の滝川沿いの場所に移った。
大正期の御所坊
明治の開国に伴って日本各地に外国人居留地が出来た。 神戸港は慶応4年(1868年)に開 港。当時、移動が規制されていた多くの外国人にとって、神戸から20キロ程度しか離れて いない有馬温泉は、日本で初めての温泉地であった。この頃、有馬温泉では清水ホテルを 皮切りに多くの外国人専用ホテルが滝道沿いに立ち並び、御所坊ではフランスから取り寄 せたステンドグラスや寄木細工で飾った床等を設えたダンスホールが作られた。
谷崎潤一郎
開国で急速に近代化が進んだ当時の日本を生きた文豪・谷崎潤一郎は、関東大震災後に住 んだ神戸の家から、有馬温泉へ度々訪れ、御所坊へ泊っている。昭和十一年(1936年)に 発表した小説「猫と庄造と二人のをんな」の中に御所坊を登場させている。
吉川英治
「水音は二階に高き河鹿かな」 ー 昭和二十九年(1954年)7月、吉川英治は新平家物語 の取材旅行で御所坊を訪れ2階の部屋に泊り、句を残した。
与謝野晶子
「花吹雪 兵衛の坊も御所坊も目におかずして空に渦巻く」 ー 有馬を訪れた与謝野晶 子は、桜吹雪舞う滝川の風景を歌った。
戦後御所坊
戦後、有馬郡の神戸市への併合に際し、神戸市は有馬の泉源を整備した。これにより有馬 の旅館は初めて内湯を持つ事となった。御所坊では、御所坊隣の二階坊旅館を買い取り、 大浴場を整備した。
15代目金井四郎兵衛と無方庵綿貫宏介による熟成
昭和50年代(1980年代)、日本国内では団体旅行が盛り上がり、有馬の殆どの旅館は鉄筋 コンクリートに変わり、有馬は一挙に近代化した。しかし、15代目金井四郎兵衛は、不 便でも趣きある昔ながらの木造建築を維持しつつ、無方庵綿貫宏介とともに独自の空間へ 熟成させた。「無用の用」 ー 一目見ただけでは無駄に見えるものが、実は本当に必要 な物だったりするのだ。
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