有馬温泉に素麺屋があった!

2020年5月31日


ある時「有馬温泉で七夕の時に素麺を出そう」という話になった。

素麺は奈良時代に遣唐使が持ち帰った「索(さく)餅(へい)」が起源で、平安時代には宮内の七夕儀式に索餅を供えて無病息災を祈念し、七夕に食べる習慣が広まったからです。

昔、灘で素麺がつくられており、播州素麺よりも歴史が古いという事から始まった。

そういえば確か有馬温泉に素麺屋という宿があったはずだ。

そこで調べてみると、有馬温泉古由来(1717年)には出てこないが、摂陽郡談(1701年)には記載がある。

しかし迎湯有馬名所鑑(1683年)には出てくるし、摂洲有馬細見図独案内(1737年)には登場している。

売りモノを屋号にしていたので1700年頃は、有馬温泉で富士山の噴火を話題に多くの人が素麺を食べていたと思われる。

素麺屋は今の有馬の金の湯の所にあり、御所坊・二階坊に隣接してあった。

【 素麺曼荼羅 三輪→小豆島→島原→三輪 】

素麺製造の歴史を振るかえると奈良の三輪がルーツであることは疑いない。慶長3年(1598年)小豆島の池田の人が伊勢参りの途中で技術を覚え、小豆島で素麺が製造されるようになった。

島原乱(1638年)が起こり、島原は無人地帯となった。再び一揆を恐れた幕府は各地からばらばらに農民を移民させた。その移民の中に小豆島の人々がおり、島原の発祥の地、西有家町の路地などの町並みは小豆島によく似ており同じ性が多いという。

その島原で作られていた素麺は三輪に送られ三輪素麺として販売されていたが産地表示の問題で現在は島原素麺が有名になっている。

この様な事から有馬温泉では素麺屋が登場する前より素麺が食されていたと考えられる。

【 水車が技術革新の要 】

灘での酒造りは1624年西宮での醸造が最初とされており、六甲の気候と立地条件、そして播州の酒米が手に入りやすい。そして1840年に宮水が発見されて江戸で大人気になる。

酒米を磨くのに六甲の水流を利用して水車を作った。その水車を利用して油を絞ったり麦を製粉していた。その麦を使ってつくられた素麺が灘目素麺。1790年代から歴史が始まる。

灘目は武庫川から生田川の間の24キロほどの地域で、つまり日本酒の名産地「灘五郷」です。

神戸市東灘区を中心とした「旧本山村」の村誌には江戸後期の1789年~1801年には既に素麺をつくっており、「播州龍野素麺」の製造技術は江戸後期の1818~29年に村の出稼ぎ人が持ち帰ったという伝承が記されています。
東海道線に住吉駅が開通したのが(1874年)。ととや道を使って住吉と有馬温泉の行き来が一番盛んな頃です。

とうぜん灘目素麺も住吉浜の魚と一緒に運ばれただろう。

最盛期が明治30年代で380㎏も製造していたという。

揖保の糸で有名な竜野地方の農民が、酒米を収めた灘へ冬場の出稼ぎに素麺屋に素麺師として従事し、竜野に素麺技術を持ち帰った・・・

しかし、播州素麺の歴史を見ると江戸中期の1771~80年には素麺がつくられ、江戸後期の1804~18年に龍野藩が保護育成を始めたとあります。どちらが真実なのかは分かりませんが、龍野の人が灘の素麺を視察に行ったとしても不思議ではありません

話を最初に戻して、有馬には1737年の時点で素麺屋が存在していました。つまり、播州素麺や灘目素麺よりも前です。有馬は奈良と結びつきが深く、三輪の素麺文化が直接入ってきていた可能性が考えられます。
奈良―有馬の道中にある西宮市北部では興味深い食べ方があります。葬儀などの際にお手伝いの人たちに振る舞う料理で、素麺にちらしずしのように具を飾り、酢みそで食べます。
素麺は保存食で高級品だったので、不意の時のごちそうに便利だったのでしょう。

【 雑談 】

素麺屋は二階坊だったのです。

そして二階坊は現在の御所坊の前にありました。

左の階段を登ると二階坊です。

その二階坊を第二次世界大戦後、御所坊が買収し二階坊跡は現在の御所坊の大浴場になっています。