有馬山椒 復活プロジェクト

2020年5月30日


なぜ山椒といえば、有馬なのか

昔から土地のイメージと料理は切っても切れない関係がある。例えば「信太(しのだ)」といえば、油揚げを使った料理のことで、この言葉は狐伝説で知られる信太の森(和泉市)に由来する。

小豆を用いた煮物を指す「小倉煮」も京都・嵯峨野にある小倉山から来ているし、龍田焼や龍田揚げの龍田も、生駒川が南下して大和川に合流するまでの約16㎞の小流・龍田川から来たもの。これについては、材料にまぶした小麦粉の色が鉄板の熱によって赤黒く変わる様を紅葉に見立てたために、紅葉の名所・龍田川がその名に使われたといわれている。

これらと同じように日本料理で「有馬」といえば、山椒を用いた料理を指す。

料理屋の献立の中に見られる「有馬煮」や「有馬焼」は、全て山椒が使われており、ピリッと辛い風味が特徴なのだ。なぜ有馬が山椒なのかというと、明治初期に山椒の実を醤油煮にした‟有馬山椒”なる土産物が評判を呼び、湯治場通いの人達の間で口コミで広がったことによる。その名が全国に知れ渡り、いつの頃からか山椒を用いたものを‟有馬”の名をつけて呼ぶようになった。

ただ文献を紐解くと、明治時代にできたものではなく、鎌倉時代には有馬山椒(この場合は佃煮ではなく、山椒自体を指す)が香りがよくて柔らかとの評判を取っていたようだ。

室町時代に入ると、湯治客にその周辺(有馬温泉の近く)の野山で採れた山椒を松茸といっしょに炊いて供していたとの記述も見られる。

今も有馬温泉の湯元坂で店を営む「川上商店」は、松茸昆布や山椒の佃煮で有名なところ。現店主の川上良さんの話では、すでに永禄2年(1559)から商売をやっており、「宿屋もやりながら階下の店では有馬筆や佃煮を売っていた」そうだ。永禄2年といえば、織田信長が今川義元を倒した桶狭間の戦いの前年にあたる。足利将軍の威厳はなくなっていたとはいえ、室町幕府の時代には違いない。佃煮の老舗「川上商店」の歴史からも有馬山椒の佃煮がすでに売られていたことがわかる。

蛇足ながら記しておくが、この時代にまだ佃煮なる言葉は存在しない。

徳川家康が江戸の漁場開発をすべく摂津の佃(今の西淀川区千船付近)より森孫右衛門ら漁民を移らせ、江戸に佃島を造ってそこで小魚の煮物を作ったことから佃煮なる名が生まれた。

ついでに有馬煮も説明しておこう。こちらは、だしを摂った後の昆布を水から煮て実山椒をすりつぶして加え、醤油と酢で調味して煮たものであり、有馬焼の方は、みりんの少ない佑庵地にすりつぶした実山椒を入れ、これに白身魚を漬けて焼いたものと、「にほん料理名ものしり事典」では記している。

有馬では山椒の花・実・葉・皮を食用に使っていた

山椒の佃煮の評判が広まったことが有馬煮や有馬焼の名前の由来だが、実は有馬では珍しく、山椒の花・実・葉・皮の4つの部位を食べる習慣があった。

このことから余計に山椒=有馬の印象がついたのだと思われる。

そもそも山椒は若葉を木の芽、雄花を花山椒、雌花に着く実を実山椒といい、それぞれ違った形で料理に使用される。

例えば、木の芽は春の椀物の吸い口に利用されたり、田楽味噌や木の芽和え、木の芽焼きに使われたりして用途が多い。

花山椒については醤油で煮ると、酒のつまみにもなるし、お茶漬けに用いてもいい。

一方、実は夏の未熟なものを青山椒といって香辛料に使ったり、佃煮にしたり、漬物にしたりする。

秋になり、熟した実(赤山椒)は、粗挽きの割り山椒や粉山椒にして香辛料として料理に用いる。代表的なものが鰻の蒲焼の際に用いる山椒で、七味唐辛子の中の山椒もこれにあたる。

ここまでは、ごくごく一般的な山椒の使い方なのだが、有馬ではこれに加えて山椒の皮まで食べる習慣を持っていた。

前出の「川上商店」でも売られている「辛皮(からか)」がそれ。細切り昆布と山椒の木の皮を炊き合わせて作った佃煮だが、これが実に辛くていいと評判を呼んでいる。口の悪い人に言わせると、「貧乏人の酒のアテ」だそうで、あまりに辛いためにこれを口にすれば、何杯でも酒が飲れ、つまみがいらないことからそう言われているらしい。

「川上商店」の川上良さんの話では「木の皮を細かく刻んで佃煮にするのですが、少し口にするだけでもの凄く痺れるんです」とのこと。初めは有馬の人だけがこっそり食べていたのだが、今では商品化され、おまけにマスメディアが「面白い!」と取りあげるものだから「川上商店」でもけっこうな人気商品になっているそうだ。

有馬の山椒復活の話に入る前に山椒についての予備知識を入れておくことにする。

山椒はミカン科サンショウ属の落葉低木で、別名をハジカミという。ハジカミというと、生姜などの香辛料の別名でもあるために混同されると困るが、古名を房椒(ふさはじかみ)といって北海道から屋久島までと、朝鮮半島の南部に分布しているものを指している。

実がはじけるの意の「はじ」と、ニラの古名だった「かみら」(辛いの意)からその名がついた。

山椒は中国の「魏志倭人伝」や「古事記」にも出てきており、平安時代には薬用として使われていて、のぼせや下痢、咳に効果があると伝えられてきた。料理に使われ出したのは、多分室町時代ぐらいか。今の日本料理が確立される江戸時代には当然、香辛料の一種として多用されていただろうし、有馬温泉でも湯治客の土産になっていたのは事実である。但し、人による本格的な栽培は明治時代を待たねばならない。

山椒に含まれるサンショオールには、胃を丈夫にして腸の働きを整える作用がある。

また、大脳を刺激し、内臓の働きを活発化させる効果もあって、消化不良にも効く。加えて新陳代謝を活発にしたり、発汗作用もあって冷え症の改善に効果的といわれている。昔の人はどこまでその効果を知っていたかわからないが、痺れるような辛さが薬用として使用された要因だということは理解できる。

山椒は英語でJapanese pepper、つまり日本古来からある香辛料ということだ。日本各地に見られる落葉灌木で、葉柄部分にトゲがあるものと、ないものが存在する。

トゲがないものとして知られるのが朝倉山椒。朝倉とは兵庫県養父市八鹿町朝倉を指し、その昔、ここから身を起して守護大名となったのが戦国時代、一乗谷(福井)で一世を風靡した朝倉氏である。山城国の地理や風俗を記した「雍州府(ようしゅうふ)志(し)」(1684年)によると、「但馬朝倉より産出する山椒を佳とし、京師富小路にてこれを売る」とあるから江戸時代にはすでに世に出回っていたものと思われる。

現に江戸時代中期には出石藩江戸屋敷に献上したとの記述も見られる。

朝倉山椒は葉が大きく、実も大粒で柔らかな香りを有している。この朝倉山椒は、もとをただせば、朝鮮からの移入物。それを朝倉の地で栽培したのが始まりらしい。ある書物には、全てでないにせよ、この朝倉山椒を取り寄せて有馬の地で醤油煮にしていたとも伝えられているのだ。

ちなみに朝倉山椒と比較して有名なのがブドウ山椒。こちらは肉厚があり、爽やかな香りが特徴。ぶどうの房のように実ることからその名がつけられており、緑のダイヤとまで呼ばれている。全国の収穫量のうち約7割が和歌山県下で産され、有田川町はそれを使って町興しをしているほどである。

他人には知られたくない山椒の木がある

そろそろ本題の有馬温泉に話を戻そう。

日本三古湯のひとつ、有馬温泉は、631年に舒明天皇が約3カ月滞在し、湯治したと「日本書紀」に書かれているほど古い温泉地。一時期荒廃していたそうだが、仁西が復興させ、湯治場としての原型を作った。

有馬というと、豊臣秀吉も歴史にその名を刻んでいる。記録に残る限り、秀吉が最初に当時に訪れたのは天正11年(1583年)。その後、この天下人は幾度となくこの地に訪れて身体を癒しており、同時に色んな援助も行ってきた。

その最大のものが慶長2年(1597年)に始まった大規模な修復工事。慶長伏見地震で温泉の温度が急上昇し、熱湯となっていたのを泉源の改修をすることによってもとの状態に戻したのだ。

秀吉は有馬の名湯を気に入っていた証拠に湯山御殿を造り、町全体も整備している。

その時に整備されたのが今も町に残る寺院である。

有馬温泉内には町の規模からすると、数多くの寺が存在し、色んな宗派が混在するようにして集まっている。先の湯山御殿の遺構の一部は、極楽寺の修築していた庫裏の基礎下から見つかっているし、そのそばにある念仏寺は谷之町から、北政所の別邸跡であった現在地に移転している。

この有馬温泉内の寺町で有馬山椒にまつわる話を聞こうと、筆者は歩いている。

目的地は秀吉に縁りある念仏寺。この寺は室町時代に創建され、安土桃山時代にこの場所に移って来た。今も残る古い石垣に建つ本堂は、有馬最古の建築物で、江戸前期の建立だそうだ。

この寺の住職・永岡眼心さんは、有馬山椒についてなかなかの事情通である。

この人物によると、有馬の住人は山中に自分が見つけた山椒の木を持っており、他人には決してその場所を教えなかったとの話だ。檀家の法事に行くと、よくそんな話を聞かされたのだと永岡さんは話す。

ある日、その家の主人がもう命いくばくもない状態に陥るとする。そうすれば、子供が枕元に呼ばれて地図を渡される。そこには山中で自分が採り続けてきた山椒の木の場所が記されている。

このようにして有馬の人は、他言せず自分の木を守ってきた。「山には町内の人同士の縄張りがあり、それは知る人ぞ知る場所で、決して他人には教えなかったようです。死を前にした人が後継者にうまく伝えることができればいいが、機会を逸してしまえば、永遠にその山椒の木は家から離れてしまう。そんな危険を孕(はら)んでいるのに、隠してまでいるのは教えてしまうと、その場所が知れ渡り、全て摘み取られると思っていたからですよ」と永岡さんは語っている。

最近では家々で山椒を煮て佃煮を作る習慣がなくなってしまったが、昭和40年代くらいまではどこの家でもそうしていたようだ。

ゴールデンウイークくらいになると、山椒の花が咲く。

花が開いたら旨くないと、いったん4月下旬に山に入り、咲き具合(摘み頃)を確かめてから、その後に山椒を摘みに山に分け入る。

当時は六甲山中に沢山山椒の木があったようで、その中でも先祖から伝え聞いた木(生えている場所)を探して摘み取るのだ。

永岡さんの話では丁寧に取って行くより、むしろ粗めの方がいいのだとか。

「だから歌を唄いながら採ったらダメだと言われているんですよ。唄いながらだと、つい調子に乗ってしまい全て摘んでしまうからでしょうね」。

一般論として山椒は人里離れた山奥にひっそり生えるものの方が味がいいといわれている。だから「人の声のする所の山椒はまずい」とか、「山椒は深山に限る」とか「山椒の木のそばで歌を唄うと木が枯れる」という言い伝えが残っている。

農業技術者に聞くと、歌の話は別の意味があるようだ。山椒は浅く根を張るので木に近づいて踏むと、根が弱ってしまう。なので木のそばで歌を唄うことを禁じている。だが、永岡さんの説もあながち的はずれではないように思える。

永岡さんが回顧するようにかつては有馬中の家がその時期になると山椒を炊いていた。

寺田町や上之町では殊に盛んだったらしく、家の前を歩くと、山椒の匂いが漂っていたという。

「紙谷さんという下駄屋があって、そこではこの時期のみ山椒の佃煮を作って売っていたんです。山椒と大豆を炊いたものだったんですが、それは旨くて旨くて。隣りの畳屋にもその炊き方は教えなかったくらいです。うちでは炊いた後の醤油を分けてもらっていましたよ」。

永岡さん宅では、近年それを再現したくて研究を重ねたそうだ。

すると、紙谷さんは大豆の炊き方が上手で、堅め炊くので丁度いい酒のアテになるのがわかった。残念ながら紙谷家ではもうその頃のような山椒の佃煮は売っていない。だから永岡さんは、あの懐かしい味を今一度とばかりに再現を試みたのである。

「年寄りはどうしても柔らかく炊く傾向があるんです。でも、紙谷さんのは大豆を水に漬ける時間が違って丁度いい堅さにできるんです。このように各家庭で流儀があるのも面白いでしょう」と永岡さんは少年期の有馬の話を懐かしそうに語ってくれた。

有馬温泉・銀の湯近くで山小屋風ホテル「モルゲンロード」を営む磯部道生さんは、六甲山中の山椒の木の一部を持ち帰り、自宅の庭で生育させている人物だ。

山椒についての実用書を買って来て読むと「全国各地の山野に広く自生しているが、それは実生のイヌサンショウや野サンショウで、トゲのある有刺種。栽培に用いるのは、これらを台木にして朝倉山椒やブドウ山椒を接ぎ木にしたもの」と書いてある。

自生のものは谷沿いの傾斜地(水が停滞せず通気性がいい)に多く、根がデリケートなので条件が揃った所でないと生育しないとしている。

磯部宅はどのような環境下にあるのかわからないが、きちんと山椒が生育している。

磯部さんは仕事柄、海外で登山をすることが多々ある。欧州ではどうしても醤油気がないものがテーブルに並ぶので、そんな時に山椒の佃煮を活用するのだという。

「昔はゴールデンウイーク明けに山に入り、山椒の実を摘んでいました。木一本で300g採れたらいい方。実は青いのがいいですね。家に持ち帰り、それを湯がいて冷凍し、いる分だけ醤油などを用いて煮るんです。山椒の佃煮はあついご飯とともに食べると美味しいですし、お茶漬けにしてもいいんですよ」。

磯部さんによると、かつては山椒摘みを生業にしていた人がいたそうだ。勿論、本業ではなく、その時季のみ副業でやっていたのだろう。1~2日間山中に入り、摘んで来たものを旅館に売る、そんな風な商売が成立していたようだ。まさにキノコ採りと同じで、だから山で自生していようと、自分の木という認識が芽ばえていたと思われる。

昔は今ほど仕事もなく、裕福でもない。家々で採りに行き、食卓で山椒を楽しむ以外に摘むプロがいる。このようにして有馬では山椒を煮たり、食べたりする文化が残って行った。

5年前に山中で有馬山椒を見つけた

そんな話をしてくれた磯部さんが5年前に六甲山に入り、有馬山椒の原木らしきものを見つけている。この時のメンバーは、磯部さん、兵庫県農林事務所の岡本さん、有馬の自治会長の家形さん、それに「御所坊」の金井啓修さんの4人だ。

彼らの目的は有馬山椒の復活にある。

有馬の鼓ケ滝から山中に入り、有馬でも最も険しいとされる六甲山系の湯船山を目指し、家形さんが案内する形で山歩きをしながら有馬山椒を探した。そして見つけた山椒の木の一部を持ち帰り、兵庫県北部農業技術センターへ持ち込んで、そこで生育させているのだ。

山中から持ち帰ったのはマッチ棒ぐらいのサイズ。それをビニール袋に入れて持ち帰り、和田山近くにある北部農業技術センターに預けた。同所では冬山椒を台木として使用し、接ぎ木して生育させ、その経過を観察している。

昨夏(2014年)で5年ほどたつが、人の背丈ぐらいの大きさ(約1.8m)まで成長しているのだ。

今回の有馬山椒復活プロジェクトで生育を任されているのが、北部農業技術センターの主任研究員で農学博士の真野隆司さん。彼の話では初めは伸びが悪く、2~3年間は調子が悪かったそうだ。

真野さんがこの地へ赴任した時(接いで2年たったぐらい)は40~50㎝の大きさで、年に30㎝ぐらい伸びていくので5年で1.8mぐらいになる。3年目からは順調そのもので放っておいてもいい状態になっている。

北部農業技術センターでは、有馬山椒と目される2系統を植え、採った地名にちなみ湯船谷、稲荷山と名づけている。ともに雄雌あり、都合4種が植えられていることになる。

木が違うためか、生育や形状に変化が見られるようだ。

湯船谷と名づけられた有馬山椒は、他の山椒と比べて葉の形状が異なり、立ったような枝ぶりで開き気味に生育している。葉は見るからに鋭利で香りが強い。

一方、稲荷山の雄は短くてトゲが少ない。稲荷山の雌は一株のみで「見ていると弱い感じがする」と真野さんは指摘する。全体的な真野さんの印象は「有馬山椒と目される木は、朝倉山椒に比べてワイルドっぽい。香りも強くて本質そのものが違うようです。野性味があるからか、実印象深い」というものだ。

有馬山椒が植えられている場所は、果樹が多く、その香りに誘われてか鹿が何匹もやって来る。だが、山椒は鳥獣害を受けにくい。シトロネラールを主成分とするサンショウ油とサンショオールなる辛味成分や、ゲラニオールなどの芳香精油が含まれているのが原因で、この芳香と辛味成分により鳥獣が寄りつかないそうだ。唯一の危険はアゲハ蝶。これが山椒を見つけると、喰いつくし、丸坊主にしてしまう。

この日(2014年夏)サンプルに少しだけ有馬山椒を摘み、某所にて科学的分析をしてもらった。その報告として「稲荷山についてαピネンは針葉樹の葉に含まれる樟脳様の香りがする」と返って来ている。「朝倉山椒はレモン果実のフルーツ臭であるシトロネラールをほとんど含んでいないが、湯船谷の方は多く含んでいる」としており、さらに「重い柑橘様の香りが強いし、雄雌の差があまりに顕著」と述べられている。

この報告書では「朝倉山椒と比べて有馬の3品種(湯船谷の雄雌と稲荷山の雌)の特徴は、朝倉山椒が含まないシトロネラールを含んでいると総括することができる」と結んでいる。

今後、有馬温泉では、神戸市北区大沢(この地も昔は有馬郡の一部であった)の地で、湯船谷と稲荷山と名づけた有馬山椒と目されるものを植え、増やしながら生育させる計画だ。

これらが摘むほどの大きさになるには、さらに5~10年の歳月を要する。

この長い取り組みを行うのは、なくなりつつあった有馬山椒を使って色んな料理や土産物を作っていきたいとの温泉街の野望があるからだ。有馬山椒が本格復活なるか!そこに行くまでは多くの人の労力とまだまだ長い月日が必要なのであろう。

(文/フードジャーナリスト・曽我和弘)